奈良県明日香村にある高松塚古墳。
極彩色で描かれた「婦人群像」の壁画で知られ、重要な歴史的遺産として国宝にも指定されています。
そんな高松塚古墳ですが、発掘調査後に関係者が次々と死に見舞われたという話をご存知でしょうか?
まるで「ツタンカーメンの呪い」を彷彿とさせるようなこの出来事は、
「高松塚古墳の呪い」や「高松塚古墳の祟り」として世間で噂となり、週刊誌にまで取り上げられたのです。
有名な古墳にまつわる呪いの話を、今なお解決できない謎とともに紹介しましょう。
高松塚古墳とは
(https://ja.wikipedia.org/wiki/高松塚古墳)より画像引用
高松塚古墳は奈良県の明日香村にある、7世紀末につくられた古墳です。
直径約18メートルにおよぶ巨大な円墳は、現在日本で発掘されている古墳のなかでもっとも古いものとして有名です。
古墳内部に描かれた「婦人群像」の壁画は、赤、黄、緑の色を見事に浮き彫りにしており、歴史的価値のある遺産として国宝にも指定されています。
教科書にも掲載されていますので、この壁画を目にしたことがあるはずです。
2009年には本来の形状に復元され、今では一般に公開されています。
そんな高松塚古墳ですが、発掘調査後に関係者が次々と死に見舞われたという話はあまり知られていません。
「ツタンカーメンの呪い」を彷彿とさせるような出来事は、「高松塚古墳の呪い」や「高松塚古墳の祟り」として世間で噂となり、週刊誌に掲載されていたのです。
5人の犠牲者を出した「高松塚古墳の呪い」
高松塚古墳に埋葬されていた被葬者は誰か(http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_03_24.htm)より画像引用
1970年10月ごろ、村人が生姜を貯蔵するための穴を掘ったところ、その奥から古い切石が見つかりました。
農業の振興と観光をかねた舗道を村内に通す説明会で、観光課の職員が、地元の住民から切石の話を耳にします。
この切石の話を聞いた観光課長のMさんは発掘に人一倍情熱を注いでいました。
発掘計画が順調に進んだのはMさんの功績がとても大きく、Mさんは発掘費用を捻出するため、文化庁や財務局に必死でかけあっていたのです。
1972年3月から本格的な発掘調査が開始され、その月の21日に石室が発見されました。
厚さ数ミリの漆喰を塗った東壁・西壁・北壁には、極彩色で男子・女子の群像と四神像日月の像が、そして天井石にも星座が描かれており、日本中を驚かせました。
この時・・・
発掘とともに何かが解き放たれたのでしょうか。
次々と死が関係者に訪れはじめるのです。
最初の犠牲者となったのは、高松塚古墳の発掘事業を推進してきたMさんでした。
古墳の発見後から、Mさんは奇妙な感覚に見舞われるようになります。家族の話によると、Mさんは毎晩のようにうなされていたのだとか。
発見から2ヶ月後の5月21日、Mさんは突然胸に痛みを覚えて倒れ、そのまま亡くなってしまいました。
死因は持病だった肺癌なのですが、あまりのタイミングに村人たちは「古墳の呪いではないか」とささやきはじめます。
同年8月21日。
この日の朝、高松塚古墳の近くに住んでいたKさんが、全身がだるいと急に苦しみだし、2日後に死亡しました。
その最期は尋常ではなく、全身に紫のアザができ、全身の力が抜けて立っていられなくなり、お腹の中に物がつまったような苦しみ方をして亡くなっていったそうです。
かけつけた医師も手の施しようがなかったといいます。
発掘の手伝いもしていたKさんは、古墳沿いに畑を持っていました。
畑拡張のために鍬で地面を掘り返したところ、誤って古墳の一部を削ってしまったことへの「呪い」だったのではないかいう話もあります。
そして1年後の1973年8月21日。
古墳発掘の資金集めに尽力していた自治会長のSさんが、村の寄り合いからの帰宅途中、車にはねられ死亡しました。
Sさんをはねてしまったドライバーは、前をしっかりと見て運転していたにも関わらず、自治会長の姿が見えなかったと証言しています。
また、車とぶつかった衝撃はそんなに強くなかったにも関わらず、なぜかSさんは即死状態でした。
この3つの事件には、すべて21日ということが関連しています。
高松塚古墳が発掘された3月21日と同じ日なのです。
4つめの事件は更に奇怪なものでした。
古墳発掘の際に最初に鍬を入れたNさんが、物置小屋にて農薬を飲んで自殺しました。
Nさんも最初の犠牲者Mさんと同じく、悪い夢にうなされることを家族に話していたそうです。
しかしこれといった自殺の兆候はなく、その日も家族と一緒にTVを見て楽しんでいました。
それなのに、数分後に物置で自殺するという唐突な行動に出ます。
しかもNさんがどこから農薬を入手したのか、経路や形跡は警察の調べでもわかりませんでした。
さらに1974年1月4日。
高松塚古墳の色彩壁画を修復するために、壁画の模写を続けていた画家のWさんが、交通事故で亡くなりました。
ちょうど壁画に描かれていた3人の貴婦人を模写している時でした。
Wさんは日こそ違うものの、自治会長のSさんが事故に遭った時間帯とほぼ同じだったといわれています。
5人目の犠牲者を最後に、「呪い」は止まっています。
このたび重なる不幸は、単なる偶然が連続して起こったものなのでしょうか。
それとも高松塚を暴いた「祟り」とでもいうのでしょうか。
頭蓋骨が見つかっていない高松塚古墳の被葬者
古代中国には墓誌銘を墓に埋納する風習があり、そこから被葬者が誰であったか特定できます。しかし古代の日本においてはそうした風習がなく、誰のお墓なのか、多くの古墳でわからないままになっています。
古墳の場所、立地条件、古墳の大きさや規格、副葬品、築造年代・・・
考古学上の考察と人骨の鑑定などから被葬者像を絞り込み、古文献から候補者を割り出すという手法をとるかないのが現状です。
高松塚古墳も同様に、誰が極彩色の壁画に囲まれて埋葬されたのか、被葬者については議論がなされています。
高松塚古墳で謎なのは、「誰が埋葬されたか」だけではありません。
高松塚古墳の被葬者は、頭蓋骨だけが小破片すら全く発見されていないのです。
石槨内にあった人骨は一体分。
甲状軟骨や舌骨などの小型の骨が中心で、鑑定結果より
「30歳から70歳までの男子で、あえて言えば筋肉たくましい初老の大男であり、一本だけ残っていた歯の摩耗状態からすれば、4,50歳代の可能性が強い」
と考えられています。
頭蓋骨だけは見つからなかったことに関しては、昭和47年の中間報告書でも「甚だ不思議」と述べられており、今なお解決されていません。
頚椎の骨が残っていることから「斬首」されたとは考えられず、古墳時代の人骨であっても頭蓋骨は残っているのが普通です。
そうなると斬首以外の方法で頭部を除いて埋葬したか、あるいは盗掘者が頭蓋骨を持ち去ったことになります。
事実、高松塚古墳には何者かが盗掘に入った痕跡が残されています。
高松塚古墳に埋葬されていた被葬者は誰か(http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_03_24.htm)より画像引用
上の画像は高松塚古墳の石室の展開図ですが、図の左側に「盗掘孔」があります。
しかし「盗掘」と考えてもさらなる謎が残るのです。
高松塚古墳には頭蓋骨のない被葬者の骨と副葬品の他に、刀身のない鞘が添えられており、
壁画に描かれた日月像と玄武の顔が削り取られていたのです。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/高松塚古墳)より画像引用
見てわかる通り、壁画に描かれた玄武は意図的に削り取られています。
高松塚古墳に侵入した「盗掘者」は、
金品や価値のありそうな副葬品には目もくれず、日月像と玄武と壁画を削り、頭蓋骨と鞘のない刀だけを持ち去っていったことになるのです。
これらの謎は何を示すものなのでしょうか。
高松塚古墳は怨霊を封じ込めたものだった?

梅原猛氏は著書『黄泉の王』の中で、高松塚古墳は「怨霊を封じ込めた塚」という説を展開しています。
頭蓋骨がない被葬者の骨
鞘だけが残された大刀
削り取られていた日月像と玄武
これらは呪いの封印だというのです。
盗掘者が暗い石室内で頭蓋骨を探し出し、鞘を残して刀身だけを持ち去る。
この不自然さに梅原氏は疑問を持ち、埋葬当初からこの3つが欠落していたと考えました。
余程の怨念を持つ死者をこの古墳に「封印」したからではないか。
つまり、高松塚古墳の被葬者は埋葬時にはすでに白骨化しており、その怨霊の復活を阻止するため、遺体から頭蓋骨を抜き取り、刀身のない鞘を添えて埋葬したのだと梅原氏は推測しているのです。
「刀を盗る」とは「権力を奪い、引きずり降ろす」ということ
壁画には儀式に参列する官人が描かれているが、その主役には首がない。
死の世界ゆえに玄武や日月像が削りとられたのです。
「死に番」がつけられた高松塚古墳
「ほんとうにあった怖い話」で知られる霊能力者の寺尾玲子さんの霊視によると、高松塚古墳にはかなり強い呪詛がかけられているそうです。そもそもは持統天皇の息子・草壁皇子のためのお墓だったそうですが急遽変更。
「しき」という名前がイメージとして浮んでくるらしいです。
高松塚古墳の被葬者を示すメッセージなのでしょうか・・・
ちなみに、高松塚古墳の正式な住所は
「奈良県明日香村上平田4444番地」
となっています。
「4」は「死」をイメージさせる縁起の悪い数字ですね。
ホテルや駐車場などでは「4」を避けて番号を割り振ることが今なおあります。
そんな縁起の悪い地番をなぜ高松塚古墳につけたのか、心理や意図はわかりませんが、
一説によると、国有地ならクレームが来ないだろうと、縁起の悪い「死に番」を付け、そのまま放置していたとも。
他にもこんな話を見つけました。
高松塚古墳が発見された場所は、古来地元では「古宮」と呼ばれる忌地だったそうで、
橘家紋を持つ9軒の家が代々祀っていたそうです。
「呪い」「怨霊」「呪詛」「死に番」「忌地」・・・
高松塚古墳には何が眠っていたのでしょうか。
おわりに
5人の犠牲者を出した「高松塚古墳の呪い」。当時の週刊誌が報じていたらしいというところまではわかったのですが、どの雑誌なのか、ソースを辿るところまではできませんでした。
「高松塚古墳の呪い」の真偽はわからないまでも
歴史の専門家や霊能者の方も口を揃えて「怨霊」「呪詛」と語っていることに、強い興味と恐怖を覚えます。
情報収集のためにいろいろサイトを見て周っていたところ、
「高松塚古墳の呪いのことを書いたその夜、悪夢にうなされた」
という最初の犠牲者Mさん、農薬を飲んだNさんを連想させるライターの書き込みを目にしました。
今夜、何も起こらないといいのですが。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。