運動不足解消のため、近場の用事はできるだけ徒歩で済ますようにしています。
4月の初め頃、最寄駅までの道でこのようなポスターを見つけました。
私の目を強く引いたのは、講師に招かれている小松和彦先生。
民俗学、特に妖怪に興味を持っているのなら知らない人はいないであろう偉大な先生です。
帰宅してから申し込み情報をみると、残数「△」となっていましたが辛うじて席は残っている様子。
即チケットを申し込み、先日の日曜日に講演を聴きに行ってきました!
予習として「土蜘蛛」について事前に調べたことと合わせて、講演の様子などを備忘録的に記しておきたいと思います。
妖怪研究の第一人者 小松和彦先生

小松和彦先生は民間伝承や伝説をメインに研究されている民俗学・文化人類学の専門家で、妖怪研究の第一人者として知られています。
小説や映画、漫画やアニメ、ゲームなど、妖怪は一定の周期でブームになっている気がしていましたが、そんな「妖怪ブーム」は小松先生の研究があったから起こったのです。
かくいう私も霊的存在の祭祀や呪詛についての考えに、小松先生の影響を受けています。
ブログ記事で言うと、行ってはいけない神社 やひとりかくれんぼの考察 などですね。
影響を受けたと書きましたが、参考文献として、先生の本を読みながら記事を書いたわけではありません。
あらためて先生の本を読み直したところ、自分が思っていた以上に影響を受けていることに驚きました。
影響を受けたという自覚がないくらい、小松先生の理論は頭に入ってくるのです。
さて思い起こしてみれば、妖怪をテーマにした漫画や小説、研究書などはいくつも読んできましたが、妖怪研究の専門家の方の話を直に聞くのは初めてです。
せっかくの機会なので講演を聴く前に、基礎知識くらいは事前に調べておこうと思いました。
以下、講演を聴く前に調べたことをまとめておきます!
日本神話に見る土蜘蛛
土蜘蛛とは、『古事記』『日本書紀』『風土記』などに登場する、皇室に従属しない地方豪族やその一門のことを言います。
古代大和朝廷に従わない地方豪族の存在は、
朝廷にとって目の上のタンコブであると同時に、政治基盤を揺るがしかねない危険因子でもありました。
そのため朝廷は、そうした人々を「オニ」や「ツチグモ」と呼び警戒していたのです。
『古事記』や『日本書紀』によると土蜘蛛は、
その姿は背が低く手足が長い
人里から離れた場所に岩窟を掘って住み、人が来れば岩窟に入って隠れる
狼のような性質と梟のような情をもった集団
と書かれ、異形の姿、異様な生活習慣を強調して伝えています。
土蜘蛛という名称の語源として「土隠(つちごもり)」に由来するとする説があり、
彼らが横穴のような住居で暮らしてた民族であることからつけられた呼び名だろうと推測されます。
土蜘蛛の特徴として、九州の熊襲や東北の蝦夷と異なり、日本各地に住んでいたことが挙げられます。
陸奥国・越後国・摂津国・肥後国・日向国の各風土記逸文、
および『丹後国風土記残欠』にも土蜘蛛の名が登場し、
当時まだ辺境とされた各地の文献にも土蜘蛛について多くの記述が見られます。
特に大和国・大和葛城山を根城にしていた土蜘蛛が有名で、彼らは神武天皇によって討伐されました。
『日本書紀』によると神武天皇が即位される前の己未の年、
大和国に従わなかった「波哆丘岬の新城戸畔」「和珥坂下の居勢祝」「臍見長柄丘岬の猪祝」という、3ヶ所に住む土蜘蛛をそれぞれ討ち取らせました。
また、高尾張邑にいた土蜘蛛を葛を編んで作った網を使って討伐したことに因んで、村の名前を葛城(かつらぎ)と改めたことを伝えています。
土蜘蛛討伐の歴史が地名に残っているのです。
このとき神武天皇は滅ぼした彼らの怨念が復活しないよう、土蜘蛛の頭、胴体、足を別々にして神社の境内に埋めたという伝承が残っています。
奈良県葛城山にある一言主神社の境内には、そのとき彼らを葬った「土蜘蛛塚」が現在も残されています。
妖怪としての土蜘蛛
ウィキペディア「土蜘蛛」 より画像引用
朝廷に討伐された地方豪族の土蜘蛛ですが、時代が下ると、土蜘蛛は巨大な蜘蛛の妖怪として登場するようになります。
土蜘蛛は鬼の顔に虎の胴体、蜘蛛の手足を持つ巨大な妖怪とされ、山奥の洞窟に棲み、糸で旅人を雁字搦めにして喰らうものとされていました。
妖怪としての土蜘蛛に関しては様々な異伝が存在するのですが、よく知られているのは源頼光による土蜘蛛退治譚でしょう。
源頼光(よりみつ、らいこう)とは、鬼の総大将「酒呑童子」を退治したことで知られる平安時代のスーパースターです。
渡辺綱や坂田金時など、頼光四天王と呼ばれる勇猛果敢な家来たちを引き連れて、さまざまな怪物退治を行っていました。
土蜘蛛退治譚には大きく分けて『平家物語』と『土蜘蛛草子』の二つのパターンが存在します。
簡単にあらすじを紹介しておきましょう。
『平家物語 剣巻』の土蜘蛛退治
『平家物語』は鎌倉時代の軍記物語ですが、作者や成立年代に関して詳しいことは分かっていません。源頼光と四天王が土蜘蛛を退治する話は「剣巻」に登場し、「山蜘蛛」と表記されています。
ある時、頼光は瘧病を煩いどのような処置をしても熱が下がらす、30日余り苦しんでいました。
そんな頼光の屋敷を、身の丈7尺(2.1メートル)という長身の怪しげな法師が訪れ、頼光に縄を放ち絡めとって連れ去ろうとしました。
頼光は驚きつつも跳ね起きて、枕元に置いてあった名刀・膝丸で斬りつけ、法師を追い返します。
翌日、家来とともに法師のこぼした血痕を追いかけると北野天満宮の裏手の塚に辿り着き、全長四尺(1.2メートル)の巨大な蜘蛛が巣くっているのを見つけました。
頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して河原にて晒しものにすることとしました。
頼光らがこの怪物を退治すると、頼光の病はすぐに快復。
土蜘蛛を討った膝丸はそれ以来「蜘蛛切」と呼ばれることとなりました。
『土蜘蛛草子』の土蜘蛛退治
ウィキペディア「土蜘蛛」 より画像引用
もうひとつのパターンは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて成立した絵巻物『土蜘蛛草紙』に見られる土蜘蛛退治の話です。
『土蜘蛛草紙』では、鬼の顔に虎の胴体、そして蜘蛛の脚を持った巨大な化物の姿が描かれています。
源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外にある北山を訪れたとき、髑髏が空を飛ぶという怪異に遭遇しました。
不思議に思った二人は髑髏を追いかけ、神楽岡の荒れ果てた古い屋敷に辿り着きます。
屋敷内から無数の妖怪たちが出現し、頼光たちを襲撃。
頼光たちと妖怪らとの戦闘は夜通し続きました。
明け方になり、美女まで現れて色仕掛けで迫ってくるのですが、頼光は惑わされることなく、女に一太刀を浴びせます。
するとたちまち妖怪たちは姿を消し、女の妖怪も姿を消しました。
しかし白い血が地面に落ちていたため、その血痕を辿ると、山奥の洞窟に巨大な蜘蛛の怪物が巣食っているのを見つけました。
この怪物が全ての怪異の正体、頼光たちを苦しめた元凶だったのです。
激しい戦いの末、ようやく頼光が土蜘蛛の首を刎ねると、その腹からは1990個もの生首が転がり出てきました。
さらに脇腹から人間の子どもくらいの大きさの子蜘蛛が無数に飛び出してきたので、その脇腹を探ると20個ほどの小さな頭蓋骨が見つかりました。
最初に見た「空飛ぶ髑髏」はこのうちのひとつだったのです。
頼光たちは土蜘蛛の首を埋め、住処を焼き払い、都に帰ったのでした。
このように蜘蛛の姿をした妖怪として土蜘蛛は登場しています。
ですがいずれも物語や能をもとに制作されたもので、『記紀』などに書かれた地方豪族の土蜘蛛の伝説と、直接的な関係は特に見られません。
能「土蜘蛛」

能の演目「土蜘蛛」は室町時代の末期に制作されたと言われている妖怪退治物で、基本的なストーリーは『平家物語』のものと同じです。
ある時、頼光は熱病に冒され床に臥せっていました。
そこへ侍女の胡蝶が、病に苦しむ頼光のために典薬の頭からもらった薬を携えてやってきました。
しかし頼光の病は一向に良くなりません。
胡蝶が退出し夜も更けた頃、頼光の病室に見知らぬ法師が現れ、病状はどうかと尋ねます。
不審に思った頼光が法師に名を聞くと、
「わが背子が 来べき宵なり ささがにの」
と古今和歌集の一節を歌いながら近付き、いきなり千筋の蜘蛛の糸を投げかけその身を絡めとろうとしました。
頼光はとっさに枕元にあった源家重伝の名刀・膝丸を抜き、斬りつけます。
すると法師は無数の糸を投げかけ、たちまち姿を消してしまいました。
騒ぎを聞いて駆けつけた頼光の侍臣・独武者(ひとりむしゃ)に、頼光は今起こったことを語り、
膝丸を「蜘蛛切」に改めると告げ、
蜘蛛の化け物を成敗するよう、独武者に命じます。
蜘蛛の血が流れているのを見つけた独武者は、血のあとを追い、化け物の巣とおぼしき古い塚にたどり着きました。
「土も木も、我が大君の国なれば、いづくか鬼の、やどりなる」
(この国は土も気もすべてが大君のものであるから、鬼の宿るところは無い)
独武者は大声でそう叫び塚を従者に崩させると、中から火炎や水で対抗してきました。
やがて鬼が姿を表し今度はおびただしい糸を投げかけ、
「汝知らずや、われ昔、葛城山に年を経し、土蜘蛛の精魂なり。猶君が代に障りをなさんと、頼光に近づき奉れば」
(我は葛城山に年を経た土蜘蛛の精魂であり、君が代に障りを成さんと頼光に近づいたのである)
と言い放ちました。
土蜘蛛は千筋の糸を投げかけて独武者たちをてこずらせますが、大勢で取り囲み一斉に斬りつけてついに土蜘蛛を退治します。
そして化け物を退治した一行は、喜び勇んで都へと帰って行ったのです。
「わが背子が 来べき宵なり ささがにの」とは衣通姫が詠んだ和歌の一節で「蜘蛛のふるまひ かねてしるしも」と続きます和歌に詳しい人には法師の正体が「蜘蛛」だと気づく読み手の教養を試す演出なのです
基本的なストーリーは『平家物語』と同じものですが、異なる点もあり、
胡蝶と独武者という登場人物が加わっていること
土蜘蛛の住み処が奈良の葛城山になっていること
が挙げられます。
土蜘蛛の住処を葛城山としたのは古代豪族の土蜘蛛、
特に『日本書紀』に見られる大和・高尾張邑の土蜘蛛の伝承をベースにしていると考えられます。
以上が小松先生の講演を聴くにあたって、私が事前に予習していたことです。
土蜘蛛伝説を探る -能「土蜘蛛」の背景-
今回の講演は、後日に演じられる能「土蜘蛛」をより楽しんでもらうために企画されたものでした。講演は阪急宝塚駅からほど近いソリオホールにて行われ、
会場には長机1つにつきパイプ椅子が2つ、それが50セットありましたから定員は100名といったところでしょうか。
開演は14時からで、その20分前にはソリオホールに着いたのですが、座席はすでにほとんど埋まっていました。

できるだけ前で見たかったのですが・・・
やむなく中央の列の一番後ろの席に腰を下ろします。
入場受付でもらった資料と、自分が用意した資料を見比べながら、講演が始まるのを待ちます。
14時になり司会の方の挨拶の後、小松先生が登壇されました。
小松先生の簡単な自己紹介の後、妖怪・土蜘蛛についての解説が始まります。
土蜘蛛に関する各文献は、
能「土蜘蛛」 → 『平家物語』 → 『土蜘蛛草紙』 → 『記紀』『風土記』の土蜘蛛退治
の順に解説されていました。
まずはメインである能「土蜘蛛」の説明を丁寧に行いつつ、
『平家物語』『土蜘蛛草紙』との相違点を挙げ、他の伝承とも照らし合わせて検証し、
能「土蜘蛛」と『平家物語』に共通する「葛城山」をキーワードに、地方豪族の土蜘蛛の伝説に切り込む。
講演の大筋はこのような流れで進められました。
講演の内容を詳細に書くと著作権に抵触するかもしれませんし、
何より小松先生の論理展開を再現するほどの知識はありませんので、
講演内で特に興味を持った話を2つ紹介させていただきます。
土蜘蛛退治は「源氏の宝剣伝説」
多田神社の宝物殿にある「鬼切丸」(多田神社HP より画像引用)
能「土蜘蛛」と『平家物語』のあらすじを読んだ後、奇妙な感覚がありました。
酒呑童子を倒した平安時代のヒーローであるはずの源頼光がそれほど目立った活躍をしていないからです。
ハイライトといえば病床にありながらも、怪しげな僧に刀で一太刀入れたくらい。
能「土蜘蛛」にいたっては化け物を退治したのは家来たちです。
そしてどちらの話もやたらと「名刀」をゴリ押しし、「膝丸」から「蜘蛛切」に号を変えたことを強調しているのが不思議でした。
この謎を解く鍵は独武者のセリフにあります。
「土も木も、我が大君の国なれば、いづくか鬼の、やどりなる」
(この国は土も気もすべてが大君のものであるから、鬼の宿るところは無い)
これは妖怪退治の「決まり文句」で、
酒呑童子を退治した『大江山』のほか、『土車』『太平記』にも細部の言葉は違えど、同じようなセリフが登場しています。
独武者のセリフにある「大君」とは「天皇」のこと。
つまりこれは朝廷の支配体制が背景にあることを示し、妖怪の存在は王権の支配を乱すことを表しています。
『平家物語』が成立したのは鎌倉時代。
政治の権力が朝廷から幕府へ、すなわち源氏に移った時代でした。
そもそも、なぜ朝廷に政治を行う権力があったかというと三種の神器、
八咫鏡、八尺瓊勾玉、そして草薙剣が朝廷にあったからです。
源氏には「膝丸」の他にもう一つ、「髭切」という宝刀があります。
「髭切」は頼光の家来・渡辺綱の刀で、一条戻橋にて鬼の腕を切り落とし、「鬼丸」に号を変えています。
そして「膝丸」は土蜘蛛から頼光の身を守り「蜘蛛切」に名前を変えました。
妖怪を退治した「膝丸」と「髭切」は、政治権力を手にした源氏にとっての草薙剣だったのです。
大和地方の”葛城王朝”と土蜘蛛
『記紀』の記述に間違いがなかったとすると、奈良・葛城にいた古代豪族・葛城氏を中心とした王朝がかつて存在していたのではないか、と考える説があります。その説で語られる王朝のことを「葛城王朝」といいます。
ただし葛城王朝が存在したことを示す物的な証拠や記録はなく、
そもそも出土物も少ない時代なので、仮説の域を出ないというのが現状です。
小松先生はこの講演の最後に葛城王朝について語っておられました。
葛城は、能「土蜘蛛」で登場した化け物の住処であり、
記紀において神武天皇が地方豪族の土蜘蛛を討伐した場所でもあります。
葛城王朝が存在したとすると、大和朝廷とは姻戚関係で結ばれた対等な同盟関係にあったと考えられ、
そして葛城氏の台頭が土蜘蛛討伐後であることから、
もしかしたら葛城氏こそが土蜘蛛を滅ぼした張本人なのかもしれません。
しかし神武天皇の時には対等だった同盟関係も、第21代天皇・雄略天皇の頃には葛城王朝は衰退していました。
その雄略天皇は、葛城山にて一言主神という謎の神様に会っています。
『古事記』雄略天皇条
雄略天皇が葛城山に登って狩りをしようとしたところ、自分と同じ服装をした者たちの一行に出会った。
不審に思って尋ねると、「吾は禍事も善事も一言、言ひ離つ神、葛城の一言主大神ぞ」と答えた。
『古事記』ではこのあと、雄略天皇は恐れ入ったと武器を献上して講和を結んだとあり、
『日本書紀』では一緒に狩りを楽しんだとあります。
しかし『釈日本紀』では怒った雄略天皇が一言主神を捕らえて土佐に流したと記されているのです。
「自分と同じ服装をした者たち」とは、自分たちと同じくらいの権力をもった一族がいたということ。
釈日本紀が事実だとすると、対等な関係だった一族を捕らえ、島流しにしたということになります。
一言主神とは葛城氏のことであり、朝廷と対等な同盟を結んだ関係から衰退していった流れを描いた話なのかもしれません。
そして一言主神とは、滅ぼした土蜘蛛の怨念が復活しないよう、土蜘蛛の体を別々にして埋めた一言主神社の御祭神なのです。
一言主神が葛城氏のことだとしたら、一言主神社で祀られているのは”土蜘蛛の怨霊”なのでしょうか。
おわりに
妖怪をはじめ、民俗学に興味のある私にとっては90分の講演はあっという間で、久しぶりに学生に戻った気持ちになりとても楽しい時間でした。ひとつ残念なことがあるとすれば、予定に書かれていた質疑応答の時間がなかったこと。
能「土蜘蛛」のための講演でありながら、地方豪族の土蜘蛛について語っておられた時、最も熱がこもっていたように感じました。
妖怪として描かれた裏にいる、敗者として歴史に隠され、忘却されていった者たちを慈しむように。
葛城山周辺には、何の神様を祀っているのかわからない謎の神社がいくつもあるそうです。
また機会を見つけて足を運んでみたいと思います。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。